この人に聞く
東大の学術標本を収めた写真展を開催
被写体は自分自身を写す鏡
一瞬を切り取るおもしろさを感じて
東京大学所有の学術標本を展示するミュージアム「インターメディアテク」において、動物の剝製(はくせい)や骨格標本などを収めた写真展が開催されます。撮影を担当したのは、長年にわたり日本の写真界のトップで活躍してきた写真家の立木義浩さんです。そんな立木さんに、今回の作品の撮影にまつわるエピソードや、写真を撮るうえで大切なポイント、これからを生きる子どもたちに伝えたいことなどをお聞きしました。
プロジェクト構想開始から2年
学術標本を独自の視点から撮影
髙宮 日本郵便と東京大学総合研究博物館が共同で運営する「インターメディアテク」では、東京大学が1877年の開学以来、蓄積・収集を行ってきたさまざまな学術標本が展示されています。今回、そこに収められる剝製や骨格標本、古代の装飾品など歴史的史料の数々を立木さんが独自の視点から撮影し、それらの作品を集めた写真展が10月26日から3か月にわたって開催されます。撮影の際に苦労されたこと、工夫されたことを教えてください。
立木 史料はどれもデリケートなものばかりですから、標本をガラスケースから取り出したり、所定の位置から動かしたりすることなく、ふだん展示されている状態のまま撮影を行いました。そのため、ガラスに照明が反射したり、撮影者の影が映り込んだりするのですが、それが結果的に作品の良いアクセントになりました。偶発的に映り込んだ背景も含めて、学術標本の新しい一面を発見してほしいと思っています。
髙宮 このプロジェクトが始まったのは何年前ですか。
立木 撮影を開始したのは2023年3月です。主に施設の休館日に撮影を行ったことに加え、一つひとつの標本の撮影許可を得るプロセスが非常に複雑で時間を要したため、構想開始から開催までに2年という年月がかかりました。
髙宮 立木さんが写真を撮影される際は、あらかじめ「こういうものを撮ろう」と構想を固めてから進めていくのですか。
立木 もちろん、作品によってはそういうケースもあります。しかし、今回は撮りながらテーマを模索していく手法を採りました。初めからテーマを固めてしまうと、“良き意図を持って撮られた、つまらない写真”になりかねないからです。
たとえば、コウモリの骨格標本が月に向かって飛んでいるように見える写真は、まさに偶然の産物です。たまたま反射した館内の照明が月のように見え、夜空を飛ぶコウモリを演出してくれています。意図せず撮ったものが、結果的に意味を持って見えるのも写真のおもしろいところです。
髙宮 東京大学とのお仕事は、立木さんのかねてからの希望だったと伺いました。
立木 東大との接点は、1990年代までさかのぼります。テレビ番組で鳥居龍蔵さん(明治時代から大正時代にかけて活躍した徳島県出身の民俗学者)の特集を組むということで、彼と同郷であるわたしが番組の案内人を務めることになりました。取材のために、徳島に残るゆかりの地や、研究拠点を巡るわけですが、その過程で、彼が海外調査を行った際に撮影で用いたガラス乾板が、100枚ほど東大に残されていることがわかりました。わたしは「それをテーマにした写真展ができたらどんなにおもしろいだろう」と考え、大学側に掛け合ってみたのですが、整理が追いついていないという事情もあったのでしょう。あっけなく断られてしまいました。しかし、今回はご縁をいただき、当時のエピソードを東大の先生に話したところ、「鳥居さんの研究に光を当ててくださるのはうれしい」とのことで、写真展の作品として、いくつか鳥居さんの研究を撮影させてもらうことができたのです。約30年かけて温めてきたアイデアがようやく日の目を見て、感慨深い気持ちです。
『カメラ毎日』の巻頭56ページを担当
前代未聞の大抜てきで一躍トップカメラマンに
©Yoshihiro Tatsuki/The University Museum, The University of Tokyo
髙宮 そもそも、立木さんはなぜカメラマンをめざされたのですか。
立木 わたしは、徳島市で3代続く「立木写真館」の次男として生まれました。そのため、写真の道を志すのは自然な流れだったといえます。加えて、兄の同級生に、有名なカメラマンの細江英公さんがいて、細江さんを介してアートディレクターの堀内誠一さんと知り合ったことが、人生の大きな転機となりました。わたしが東京写真短期大学(現・東京工芸大学)を卒業する1958年に、ちょうど堀内さんがデザイン会社「アド・センター」を設立するということで、誘われるままにカメラマンとして入社したというわけです。
髙宮 いろいろな人とのご縁が重なったのですね。
立木 入社後は、会社所属のカメラマンとして企業から依頼された広告写真を撮影する一方、クライアントの意向を気にせず、自由に作品を発表できることから、カメラ雑誌へと活躍の場を広げていきました。当時、わたしのような若手カメラマンの登竜門となっていたのが、毎日新聞社の『カメラ毎日』です。どうにか自分の作品を掲載してもらおうと、ライバル同士がしのぎを削るわけですが、運よく特集を持たせてもらえたとしても、せいぜい8ページほど。しかし、その常識を覆したのが当時の編集長の山岸章二さんでした。1965年4月号の巻頭56ページを、まだ無名だったわたしに全面的に任せるというのです。周りはおそらく「なんであいつが」と思ったに違いありません。特に真面目に取り組んでいた人からは相当なひんしゅくを買ったはずです(笑)。
髙宮 それが有名な『舌出し天使』ですね。
立木 構成は和田誠さん、詩は寺山修司さん、解説は草森紳一さんという、前例のない斬新な試みでした。そこでの作品が評価され、1965年の日本写真批評家協会新人賞を受賞。そこからは主に著名人のポートレートを中心に仕事を広げていきました。
髙宮 そこから現在に至るまで、トップカメラマンとしての道をひた走ってこられた立木さんですが、今後の目標を教えてください。
立木 これまで撮りためてきたものを完成させるのはもちろん、「いつもと違うものを撮りたい」と言って頓挫している企画もあるので、そういったものを形にしていきたいですね。
カメラには性別もハンディも関係ない
心が動いた瞬間は必ず人に伝わる
髙宮 全国の高校写真部が集う「写真甲子園」の審査委員長を務めるなど、後進の育成にも力を入れていらっしゃいます。立木さんから見て、最近の高校生の印象はいかがですか。
立木 非常におもしろいですよ。特に女子生徒の勢いがすごいですね。写真甲子園が始まった1994年ごろは、写真部に所属する女子生徒はまだ少数でしたが、携帯電話やスマートフォンの登場で写真が身近になったことも追い風になったのでしょう。男子に比べると、女子のほうが世間体を気にせず、自分の世界を信じて表現を追求する傾向が強いと感じます。
また、写真には、身体的なハンディキャップが不利にはたらくこともありません。写真甲子園では、特別支援学校からも毎年多くのエントリーがありますが、その作品を見ていると、彼らにしか切り取ることのできない世界があると感じます。たとえば、大会初日の焼きそばパーティーで、会場にもくもくと立ち上る白い煙をインスタントカメラで撮ったかと思うと、その写真を最終日の展示にすっと並べてくるのです。ふとした情景を切り取るのがとても上手で、その着眼点とセンスには、いつも感心させられます。
髙宮 良い写真を撮るための“こつ”はあるのでしょうか。
立木 まずは、撮りたいイメージをしっかり頭の中に描くこと。そして、被写体は自分自身を写す鏡であると自覚することです。もし、良い写真が撮れなかったとしたら、そのときの自分の状態が良くなかった、と考えるのです。
髙宮 他人を撮っているように見えて、そこに写っているのは自分である、と。とても哲学的な考え方ですね。写真を撮るのが怖くなってしまいそうです(笑)。
立木 たとえ被写体がぶれていても、撮影者の心が動いた瞬間に撮った写真というのは、見る人の心に訴えかけるものがあります。細かい技術はさておき、いかに自分の気持ちに正直にシャッターを押せるかというのも大事なポイントです。
ちなみに、わたしが恐れているのは、年齢とともに自分の感性がさびついていくこと。最近の若者は、スマホを構えて写真を「縦」に撮ることに抵抗がありませんが、60代から80代のアマチュアカメラマンたちは、風景は「横」に撮るものだという固定概念を捨てることができません。これは自分への戒めでもあるのですが、新しいもの、それまで自分になかった発想に対する柔軟性を保ち続けるのはとても大切なことです。それを怠けた瞬間に、自分への驚きがなくなってしまいます。わたしは常に自分に対して驚きを持っていたいと思っています。それがないと、人間はあっという間にさびてしまいますから。
髙宮 立木さんが、これからの写真界に期待していることを教えてください。
立木 今は、老若男女を問わず、さまざまな属性の人がカメラを持ち、盛んに表現活動を行う時代です。「自分の作品を広く発信したい」「多くの人に見てほしい」という外側にはたらく力と、「自分にしかできない表現を追い求めたい」「誰にも理解されなくてもいい」という内側に向かう力が互いに引き合い、拮抗している状況といえるでしょう。その混沌とした世界が一体どこに着地していくのか。混沌が収束した先に、もっとおもしろいことが起きるのではないかと考えています。
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