和田先生が語る灘校の真価

Vol.13
大きな転機を力に変えて
つなぐ伝統、生まれる伝統
1995年の阪神・淡路大震災による被災は、生徒にとっても教員にとっても非常に大きな出来事でした。その一方、一丸となって困難に立ち向かった経験は、新しい未来をつくっていくための原動力にもなりました。震災という経験を経て、伝統校はどのように変化し、新しい取り組みを生み出してきたのでしょうか。また、大きな変化のなかでどのように伝統をつないできたのでしょうか。1990年代から2000年代にかけて、受け継いだもの、新たに生まれたものについて、和田先生が振り返ります。
文責=和田 孫博
震災のダメージを受けながら
変わらぬ日常をつないでいく

和田 孫博
わだ まごひろ
●灘中学校・灘高等学校前校長。兵庫県私立中学高等学校連合会理事長。1952年生まれ。京都大学文学部文学科(英語英文学専攻)卒業後、1976年に母校の灘中学校・灘高等学校の英語科教諭に。2007年4月から2022年3月まで同校校長を務める。著書に『未来への授業』(新星出版社)、共著に『「開成×灘式」思春期男子を伸ばすコツ』(中公新書ラクレ)などがある。
1995年1月の阪神・淡路大震災の後、灘校には大小さまざまな変化がありました。細かい話では、始業時間の統一があります。それまでは夏時間(8時10分始業)、冬時間(8時40分始業)の二つの時間帯を採用していましたが、震災直後の混乱期に、どうしても始業に間に合わない生徒が増えたことをきっかけに、通年8時40分始業に統一したのです。
また、中学の入試日程も震災前後に段階的に早期化が進んでいます。かつて関西圏の中学入試は、東京・神奈川(2月1日解禁)より1か月も遅い3月1日解禁が主流でした。それを、大阪・兵庫・京都の3府県が協調して2月1日に早めたのが1995年です。しかし、この年に阪神・淡路大震災が発生し、灘中を含む兵庫県内の学校では、入試が3月1日に延期されました。翌年からあらためて2月1日解禁となりましたが、首都圏の学校との併願の利便性にも配慮し、2007年には関西圏全域で1月中旬に統一するという大改革が行われました。
大震災の影響を受けながら受け継いだ伝統もあります。特に印象に残っているのが、震災の年の「灘・甲南定期戦」です。これは、近隣の中高一貫の男子校である甲南高等学校・中学校との交流行事で、両校の運動部が10種目以上で対抗戦を繰り広げるスポーツの大会です。戦後間もない1953年に始まり、会場を交互に持ち回りながら毎年6月に開催され続けてきました。
両校ともに被災した1995年はさすがに開催が危ぶまれましたが、これまでの伝統を絶やしたくないという思いから、各種目ばらばらでも、やれる試合はやろうということになりました。この際、わたしが顧問をしていた野球部では、ご縁があって、西宮市にあった阪神タイガースの2軍球場「タイガーデン」(虎の穴の意)を貸していただくことになりました。この球場は現存しませんが、当時は竣工間もない美しい球場で、結果的に、例年以上にすばらしい環境で試合ができたのです。
この年の秋には校舎の補修工事も終え、ようやく学校の日常が戻ってきました。ちなみに灘甲戦は現在でも続いており、2025年6月には第71回が開催されています。
グローバルに学びを広げ
芸術活動にも全力で取り組む
震災の3年後の1998年、灘校は開校70周年を迎えました。この年に第6代の吉田泰三校長が退任し、第7代の河合善造校長が就任しています。
河合校長の担当教科が英語だったから、というわけではないのですが、この翌年に新しい試みとして「英国異文化研修」が始まりました。高1の夏休みに希望者が参加する海外研修で、こちらも現在まで続いています。
生徒たちは夏休み中の約2週間、イギリスの伝統あるボーディングスクールであるウィンチェスター校の寮の部屋を借りて過ごします。当初は、それぞれがロンドン市内の家庭にホームステイしながら語学学校に通うスタイルでしたが、滞在先によって体験の質がばらつくことから、現在のような寄宿形式に落ち着きました。
この研修の魅力は、ヨーロッパ、中東、アジアなど、英語を母語としない人の多い国からも参加者が集い、生活を共にできることです。お国柄によってコミュニケーションの方法も多様で、まさに「グローバル」を実感できる場とあって、生徒たちもすっかりたくましくなって帰国します。
2002年には週5日制を導入し、それに合わせて学校行事を大きくてこ入れしました。各界の第一線で活躍するOBを講師に迎えた「土曜講座」が始まったのもこの年です。すっかり灘校の名物行事になった土曜講座については稿をあらためて紹介しますが、この年、そのほかの行事も拡充させています。

たとえば、11月に開催する「学芸祭」もその一つです。校外から多数の来場者を迎える5月の文化祭とは違って、それまでは校内でこぢんまりと行っていた行事ですが、土曜日にきちんと日程を確保したことで、保護者にも公開して、より質の高い舞台芸術をつくり上げるようになりました。
中学は「合唱」を、高校は「演劇」をクラス対抗で競い合うコンクール形式ですが、ただ舞台に立ってパフォーマンスをするだけでなく、指揮や伴奏、監督、脚本、大道具や衣装作りまで生徒がすべてこなします。また、その学びのために本物の舞台芸術も鑑賞し、本気で制作に臨むのです。わたしたち教員の目から見ても非常に質の高い本格的なものになり、こちらも現在まで続いています。
震災を経験した学校として
東北との交流がスタート
2011年3月11日には、東日本大震災が発生しました。阪神・淡路大震災から16年もの年月を経ていますから、灘校の在学生には、すでに直接震災を経験し、記憶している者はいませんでした。しかし、大きな災害を経験した学校として、わたしたち教員を中心に震災の経験を語り継いできたこともあり、生徒たちの間にも、自然に被災地に思いを寄せる機運が高まりました。
やがて生徒会を中心にボランティアチームが立ち上がり、翌2012年から定期的に「東北被災地訪問合宿」が実施されるようになりました。灘校在学中に阪神・淡路大震災を経験し、その後、灘校の教員を経て、現在は福島大学准教授になっている前川直哉さんの尽力もあり、現地の高校生との交流活動などが現在も継続しています。これら一連の活動は「東北企画」と名づけられ、文化祭での展示・発表で問題提起をしたり、関西の他校を巻き込んだ交流活動をしたりと、さまざまな形で広がっています。
被災から復興へ、そしてその後のさまざまな変革へ。生徒を主体に、わたしたち教員も立場や年齢を超えて、知恵や意見を出し合って未来に向かっていきました。こうした活動こそが、灘校に新たな伝統を生み出す原動力になったと感じています。
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