和田先生が語る灘校の真価

Vol.11
「自他共栄」の精神で困難を乗り越え
阪神・淡路大震災から30年
1995年1月17日、兵庫県の淡路島北部を震源として発生した大地震は、灘校が立地する神戸市東灘区にも大きな被害をもたらしました。未曽有の災害の渦中でも、生徒や教員は自主・自律の精神を発揮しつつも協力し合い、心を一つにして困難を乗り越えます。阪神・淡路大震災から今年で30年。前校長の和田孫博先生は、こうしたエピソードの一つひとつにも「灘校らしさ」が表れていると語ります。
文責=和田 孫博
大災害の最中の大学入試でも
実力を発揮した灘校生たち

和田 孫博
わだ まごひろ
●灘中学校・灘高等学校前校長。兵庫県私立中学高等学校連合会理事長。1952年生まれ。京都大学文学部文学科(英語英文学専攻)卒業後、1976年に母校の灘中学校・灘高等学校の英語科教諭に。2007年4月から2022年3月まで同校校長を務める。著書に『未来への授業』(新星出版社)、共著に『「開成×灘式」思春期男子を伸ばすコツ』(中公新書ラクレ)などがある。
阪神・淡路大震災から30年がたちました。灘校は近隣で被災された方々の避難所となり、長期休校を余儀なくされたことは、前回も触れたとおりです。余震が続くなか、避難所の運営と並行して、中学入試や高校入試の準備など、やらなければならないことは山積みでした。
このとき、いちばん心配だったのはやはり高3生のことです。地震が起きたのは、大学入試センター試験の翌々日です。例年なら、この時期にいよいよ担任と相談しながら最終的な受験校を決め、2次試験に向けて気持ちを集中させていくタイミングです。それが突然の災害に見舞われ、彼らがどこでどう過ごしているのか、家族は無事なのか、勉強できる状態にあるのか、といった様子をきちんと把握することもできないのです。教員も非常に心を痛めていました。
なんとか全員の安否が確認できた後は、交通手段も郵便も十分に機能していないなか、担任団の教員も必死になって受験に必要な調査書を発行し、生徒の自宅や避難場所に近い駅まで手分けして届けました。結果としては、彼らは例年どおりの実績を残しています。避難所で生活しながら受験に臨んだ生徒もいたことを後から聞きました。今思い返しても、彼らのがんばりには本当に頭が下がります。
混乱のなかでも文化祭や修学旅行を決行
心を一つにして困難を乗り越える
地震発生から1か月、2か月と過ぎるにつれ、校内に避難していた方々も、自宅へ戻ったり、仮設住宅へ移ったりしていきました。春休み中に柔道場や講堂など、複数の場所に分散していた避難場所を体育館に集約し、「生活の場」と「教育の場」がある程度分けられるようになり、新学期を迎えた4月以降は、ほぼ通常の授業を再開することができるようになりました。
5月には文化祭を開催しました。まだ避難者の方々もおられるなかでしたが、「復興の象徴にしよう」「灘校の伝統をつなごう」という生徒たちの強い熱意が原動力になって実現したのです。結果的には、避難者の方々にも参加していただくことができ、それまでにない「地域密着型」の文化祭になりました。
わたしが担当していた学年は高2に進級し、6月には修学旅行に行きました。家族を亡くした生徒、被災後の生活がまだ落ち着かない生徒もいたので、一時は中止も検討しましたが、やはり、こういうときだからこそ、楽しい思い出もつくってほしい。結果的に、予定を1日短縮した3泊4日の日程で、尾瀬・日光・塩原温泉などを巡ることができました。それぞれ迷いながらの決断でしたが、今振り返れば、生徒の思いを尊重し、教員がそれに寄り添い、それぞれの行事をまっとうできたことは、本当によかったと思います。
もう一つの課題は建物の復旧でした。灘校の校舎は倒壊こそまぬがれましたが、軀体は大きなダメージを受けていました。プールは底が抜けて水が漏れていたし、体育館の床にもひびが入っていたのです。基礎部分にもさまざまな損傷があり、次に同規模の地震に見舞われたら倒壊の恐れがありました。
補修費用は約9億円にも達しました。国からの補助金などで半分は賄えましたが、それでも自己資金だけでは足りません。そこで急きょ「震災復旧募金」を立ち上げて協力を呼び掛けたところ、卒業生から想定以上の支援をいただき、無事に補修工事を終えることができました。
30年前を振り返ると、生徒と教員、そして灘校にかかわる多くの人が力を合わせて、一つひとつ困難を乗り越えてきたことをあらためて感じます。震災はつらい経験でしたが、本校に根づいた「精力善用」「自他共栄」の精神を再確認する機会にもなりました。



全国から寄せられた義援物資の配給に、大勢の避難者の方が並びました

卒業生の医師たちによって、保健室に臨時の診療所が開設されました
「担任団制度」があったおかげで
思わぬ事態にも臨機応変に対応できた
状況に応じて柔軟に策を立て、一人ひとりが精いっぱい力を出し合って課題を解決していく。災害のような非常事態に直面した際に、スムーズにそんな動きができた背景には、やはり灘校らしい文化があると思います。
それを象徴するのが「担任団制度」です。灘校では、さまざまな教科の教員が8人ほどのチームを組んで、基本的に中1から高3までの6年間持ち上がります。この間、生徒と教員の間には、まるで家族のような深い絆が育まれます。
その学年のことを深く理解している教員チームが学年の運営に決定権を持ち、自律的に実行する担任団の仕組みがあったおかげで、震災の混乱のなかでも全校生徒の安否がすみやかに確認できました。そして、文化祭や修学旅行のような行事も、安全策をとって安易に中止するのではなく、工夫しながら開催することができたと思っています。
担任団制度が非常によくできたシステムだと思うのは、自由と責任がセットになっていることです。担任団は6年間にわたってその学年の生徒たちの成長に責任を持たなくてはいけません。たとえば低学年のときに中途半端な教科指導をすれば、内容が高度になった際に大変な思いをするのは教員自身なのです。
特に低学年のうちはできるだけ目線を下げて全体を底上げする工夫が必要ですし、同時に、それぞれの教科に並々ならぬ意欲を持つ尖った生徒たちの知的好奇心に応えられるクオリティーも保たなくてはなりません。このさじ加減がうまくいくと、生徒たちの学び合いが加速し、学年全体が大きく成長するのです。まさに「自他共栄」です。このようなかかわりのなかで6年間のサイクルを回すと、新任教員も一周りすればすっかりベテランのように成長します。時代には合わないところが少々あるのかもしれませんが、競争原理をむやみに持ち込まず、一人ひとりが自分らしいやり方を磨き上げていく方法は、やはり灘校らしいし、灘校の強みにつながっていると思っています。
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