和田先生が語る灘校の真価
Vol.10
大きな災害を乗り越えて
地域との絆とつながりが生まれた
1995年1月17日未明、神戸市東灘区に立地する灘中学校・灘高等学校は、震度7の激震に襲われました。前校長であり、当時高1の担任だった和田孫博先生は、交通網が寸断されるなか、自宅のある大阪から神戸に駆けつけましたが、そこで、近隣住民の避難所となり、さらには犠牲者の遺体安置所となっている学校を目の当たりにします。さまざまな不測の事態に見舞われながら、地域とも密接にかかわりつつ、教育の場としての本来の機能を取り戻していった日々を振り返ります。
文責=和田 孫博
不測の事態、変化する状況のなかでは
その場にいる人の叡智が最大の武器
和田 孫博
わだ まごひろ
●灘中学校・灘高等学校前校長。兵庫県私立中学高等学校連合会理事長。1952年生まれ。京都大学文学部文学科(英語英文学専攻)卒業後、1976年に母校の灘中学校・灘高等学校の英語科教諭に。2007年4月から2022年3月まで同校校長を務める。著書に『未来への授業』(新星出版社)、共著に『「開成×灘式」思春期男子を伸ばすコツ』(中公新書ラクレ)などがある。
震災当日の不安な一夜が明けると、さらなる非常事態が起きました。沿岸付近のコンビナートのガスタンクからガスが漏れており、爆発の危険があるというのです。灘校も避難区域に入っています。警察官がやってきて、「すぐに全員避難させるように」と告げられました。といっても、たまたま避難所になった学校の教員に過ぎないわたしたちが、300人もの被災者を安全に誘導するのは困難です。そこで、被災者への周知は警察の方に任せて、わたしたちは、校内で預かっていた約30人の下宿生たちの安全確保の方法を検討しました。
ラジオによると、灘校から10kmほど東にある阪急線の西宮北口駅まで電車の運行が再開されたとのこと。そこまで歩けば電車で大阪に出られます。余震が続くなかでしたが、高校生がリーダーになり、中学生をはさんで隊列を作って歩くように指示して送り出しました。学校の電話は、3回線のうち1回線だけ生きていました。わたしは妻に電話をかけ、「大阪で生徒たちを出迎えてほしい」と伝えました。結果的に爆発は起きず、生徒たちも無事に自宅にたどり着くことができましたが、もし状況が違っていたら、どうなっていたかわかりません。すべてをその場その場で判断するしかありませんでした。
3日目になると、自転車やバイクで学校に駆けつけてくれる教員が増え、避難所の運営に加わってくれました。学校の様子を心配して足を運んでくれる生徒の数も日に日に増え、被災者の誘導、校舎の片付けなどを自主的に手伝ってくれました。いちばん大変だったのはトイレの汚物処理ですが、彼らはこうした作業もいとわず、一生懸命でした。今振り返っても、彼らの「学校を元に戻したい」という強い気持ちと行動が、本当に大きな力になったと思います。
近隣に暮らすOBたちも、入れ替わり立ち替わり学校に来て、いろいろとサポートしてくれました。本校の卒業生には医師が多いので、3日目ぐらいから保健室に臨時診療室が開設されました。校内には井戸があったので、小さな電源車を横付けしてポンプで水を汲み上げ、簡易蛇口を付けました。断水が続くなか、近隣にも水を提供してとても喜ばれました。
災害に備えて計画を立てておくことはもちろん大事ですが、実際に不測の事態が起きた際、計画どおりの人員や物資がそろっているとは限りません。変化する状況のなかでは、そこにいる誰かがアイデアを出し、その場にあるもので工夫しながら、「やってみよう」と合意したものを試していくしかないのです。最も大事なのは、その場にいる人たちの叡智だということを強く実感しました。
「こんなときだからこそ、がんばろう」
非常時でも全力で大学受験に挑む
学校は休校を余儀なくされましたが、大学入試は待ってくれません。とにかく受験生に調査書を発行しなくてはいけません。担任の教員たちは、混沌とした職員室から書類を探し出し、電気が通じていた近所の予備校でコピーをさせてもらって書類を整えました。郵便も十分に機能していなかったので、高3生や卒業生一人ひとりに、安全に移動できる駅と日時を指定して、職員が手分けして全員に手渡しで配りました。
生徒のなかには被災者もいます。学校としても十分なバックアップをしてあげられない。しかし「こういうときこそ、がんばって勉強しよう。どんな環境でも力を出し切ろう」と伝えました。そして、例年同様のすばらしい結果を残してくれました。現役生も浪人生も、本当によくがんばったと思います。
そのなかの一人が、現在、福島大学准教授の前川直哉さんです。彼は、京都大学から東京大学大学院を卒業後に灘校の教員になり、2011年の東日本大震災の発生後は、教え子と共に被災地に足しげく通ってボランティアに参加。2014年には福島県に移住して被災地の学習支援のNPOを立ち上げるなど、教育復興に真摯に取り組んできた人です。阪神・淡路大震災での経験が、教育の道に進んだきっかけだったと語っています。
力を合わせて、地域とともに
震災によってもたらされた新たな絆
その年の中学入試と高校入試の日程は約1か月遅らせることになりました。これを、約600人の受験生に確実に伝えなくてはいけません。なかには、被災して避難先がわからない人もいましたが、最終的には出身小学校を通じて全員に連絡がつき、無事に試験を受けていただくことができました。
授業は2月13日に再開しました。電車はまだまだ不通区間が多かったものの、代行バスなどで何とか交通はつながっていたため、まずは2月1日に試験的に登校日を設定。ほぼ全員が登校できることを確認してのことでした。
とはいえ、グラウンドには被災者が暮らす車が駐車していて、自衛隊の復旧部隊も駐在しています。学校施設をフル活用できない状況で、50分授業を4校時という短縮時程で3学期を乗り切りました。通常どおりの授業に戻ったのは4月になってからです。教員も生徒たちも喜びをかみしめているように見えました。
5月には文化祭を行いました。まだ体育館にもグラウンドにも被災者がおられたので、「灘校の再生・復興をアピールする」を基本目標に「避難住民を励まし、共に楽しむ」というテーマで開催し、被災者やボランティアの方々も参加してくださいました。このタイミングでしか実現しない、意義ある文化祭になったと思います。最後の被災者が学校を去ったのは7月19日。震災発生から約半年後のことでした。
灘校は、創立以来ずっと神戸・住吉の地で歴史を刻んできました。とはいえ、公立校ほど地域との密なつながりはありませんでした。学校の存在は知っていても、どこかよそよそしさを感じていた地域の方も多かったかもしれません。しかし、この震災を経験したことにより、学校と地域の交流は一気に増え、つながりが強くなり、関係が深まりました。さまざまな場面で、感謝のことばも数多くいただきました。阪神・淡路大震災は大きな試練ではありましたが、同時に得がたい経験と、貴重な学びをもたらしてくれたと思います。
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