和田先生が語る灘校の真価
Vol.9
未曽有の大災害
1995年の阪神・淡路大震災
灘中学校・灘高等学校は、1927(昭和2)年に創立し、約1世紀にわたって神戸市東灘区で長い歴史を刻み続けてきた伝統校です。その灘校が、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災では、突然、未曾有の大災害に見舞われることになりました。学校施設にも大きな被害を受けながら、取るものも取りあえず駆けつけた教員や生徒が力を合わせ、大災害の当日を切り抜けた様子を「教員生活を語るうえで、この体験は避けては通れない」と、和田孫博前校長は話します。当時の様子を振り返っていただきました。
文責=和田 孫博
大学入試センター試験の直後に
神戸を襲った大震災
和田 孫博
わだ まごひろ
●灘中学校・灘高等学校前校長。兵庫県私立中学高等学校連合会副理事長。1952年生まれ。京都大学文学部文学科(英語英文学専攻)卒業後、1976年に母校の灘中学校・灘高等学校の英語科教諭に。2007年4月から2022年3月まで同校校長を務める。著書に『未来への授業』(新星出版社)、共著に『「開成×灘式」思春期男子を伸ばすコツ』(中公新書ラクレ)などがある。
1995年1月17日午前5時46分。マグニチュード7.3。未曽有の大災害となった阪神・淡路大震災では、灘校の立地する神戸市東灘区も最大震度7の激震に見舞われました。わたしは当時42歳。高1の3学期を迎えたばかりの49回生の学年担任団の一員でした。
17日は火曜日で、土日と振替休日の3連休の翌日でした。といっても、14・15日は大学入試センター試験が行われていたので、試験を受けた高3生たちは、16日も自己採点のために登校していました。他学年も、土曜日には冬休みの宿題考査を受けていたと記憶しています。わたしは連休中にその採点を済ませて、17日に返却できるように準備していました。しかし、未明の大きな揺れに驚いて目を覚ました瞬間から、予定していた日常はすっかり失われてしまいます。
わたしの自宅は大阪市内でしたから、建物が倒壊するような被害はなかったのですが、直後は停電していて何が起こったのかもわかりませんでした。しばらくして携帯ラジオをつけてみると、「東海、近畿地区で大きな揺れ」と報じられていたので、最初は「ついに東海地震が起きたのか」と思いました。1時間ほどで電気が復旧したのでテレビをつけると、各地の震度が示されるなか、神戸だけは表示されません。
情報がほとんど得られないままでしたが、わたしは、神戸のホテルに勤務していた父親と共にタクシーに乗って、大阪から神戸をめざすことにしました。ところが尼崎辺りで大渋滞となり、まったく前に進まなくなってしまいます。車内のラジオで、阪神高速道路が倒壊していること、各地で火災が起きていることなどを知りました。わたしたちは西宮の手前でタクシーを降り、歩くことにしました。
神戸に近づくにつれ、街の惨状はどんどん明らかになっていきました。民家もビルも崩れ落ち、道には毛布をかけられたご遺体が横たわっています。昭和14年築の灘校の校舎も無事ではないだろう──。そんな想像をしながら先を急ぎました。ようやく学校に着いたのは午後2時30分ごろ。朝、自宅を出てから約7時間がたっていました。
倒壊家屋から命からがら逃げてきた
近隣からの避難者を受け入れる
学校に到着してみると、予想に反して校舎はしっかりと建っていました。しかし、周囲の風景は一変していました。学校のすぐそばの住宅地では多くの民家が倒壊し、命からがら避難してきた多くの方々が、校内で身を寄せ合っていたのです。
本校は私学なので、当時は神戸市の広域避難所に指定されていませんでした。しかし、早朝から近隣の方々が集まり始め、自然発生的に避難所のようになっていったようです。
朝から学校に駆けつけていたという教頭(当時)は、被災者の方々に、まず体育館を開放するのですが、その後、東灘区役所から「体育館を遺体安置所として使わせてほしい」との要請が入り、次々に運び込まれるご遺体を受け入れ始めます。続いて、新たな避難スペースとして柔道場と剣道場を開放し、それでも足りないので本館2階の講堂、東館の会議室も開放し…と、避難スペースがどんどん拡張されていったのです。
心配して学校の様子を見にきてくれた生徒もおり、避難者の誘導やトイレの汚物処理などを率先して手伝ってくれていました。そこにわたしが到着したというわけです。
気がかりだったのは、親元を離れて神戸で下宿していた30人ほどの下宿生たちの安否です。そこで、数人の教員と手分けして、すべての下宿を回って安否を確認することにしました。幸い、全員の無事が確認でき、ほっと胸をなで下ろしましたが、なかには「建物が全壊したので、がれきの下から大家さんを救出した」と話す生徒もいました。本当に間一髪だったのです。下宿生たちは全員、校内での合宿などの際に宿泊場所として使っていた「研修館」の畳敷きの大部屋に避難させることにしました。
震災当日の職員室の惨状。業務時間外であったのが不幸中の幸いでした
校内の柔道場にも多くの被災者が毛布や布団を持ち込んで避難してきました
日常が失われた状況で
知恵を出し合い、最善を模索する
目まぐるしく作業に追われているうちに、震災当日は暮れていきました。教員の多くも被災者ですから、ほとんどがいったん家族を安全な地域に避難させるために神戸を離れたため、その夜、学校に残ったのは、教頭、わたし、そして数名の若手教員だけになりました。
一方、校内の避難者は約300人にふくらみ、体育館のご遺体も200体を超えました。それでも「避難所」というにふさわしい備品もなく、電気もガスも水も通らないなか、毛布にくるまって寒さをしのぐしかありません。夜間も余震は続きましたが、本震に匹敵するほど大きな揺れがなかったことは不幸中の幸いだったとさえいえるでしょう。
震災の経験を記録した当時の自分の文章を以下にそのまま引用してみます。迷いながらさまざまなことを決め、その場その場で行動せざるをえなかったことが記されています。
〈ぼくらは右往左往のなか、いかにして学校内をまとめるかに汲々としていた。はっきりとした方針が立たないまま浅知恵を出し合い、そのなかでまともそうなのをひろって、その日その日をなんとか乗り切っていく。そういう状態であった〉
学校というのは、基本的に「習慣」で回していく組織です。4月に新入生を迎え、体育祭や文化祭などの行事を予定どおりに行い、試験があり、休みがあり、3月には卒業生を送り出す、そういう定例行事が周期的に回っていく場なのです。
ところが、いざ災害に直面すると、そうした習慣は吹き飛びます。次に何が起こるかわからないうえ、人や道具も十分に手当てできません。その場にいる人が知恵を出し合って選択肢を検討し、そのなかから最善だと思える方法を迷わず実行していくしかないのです。
今、振り返っても、当時の行動が本当に正解だったのか、正直にいうとわかりません。ただ、先の見えない状況を乗り越えるうえで、灘校らしい「精力善用・自他共栄」の精神は大きな支えになったことは間違いありません。次回は、この大災害に際して、わたしたちがどのように教育の場としての機能を取り戻していったのか、その軌跡をご紹介したいと思います。
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