受験ライフをサポートする 進学情報誌 さぴあ

さぴあは、進学教室サピックス小学部が発行し、内部生に配布している月刊誌です。

和田先生が語る灘校の真価

Vol.4

自分に合った環境を選び
学び続けることで天職を見つける

 京都大学文学部で英文学を専攻していた大学4年生のころ、和田先生は2週間の教育実習のために灘校に戻り、翌年には教員として正式に着任します。そして、生徒時代と同様に、教育実習生としても、さらには教員としても「自主自律」が求められました。社会に一歩を踏み出してからも、いえ、踏み出してからこそ、求められるのは、自分で自分の未来を決めて、そのために目の前のことに一生懸命に取り組む姿勢です。新任教員時代を振り返り、その軌跡をたどります。

文責=和田 孫博

大学4年生での教育実習で
そのまま母校への就職が決定

和田 孫博

わだ まごひろ
灘中学校・灘高等学校前校長。兵庫県私立中学高等学校連合会副理事長。1952年生まれ。京都大学文学部文学科(英語英文学専攻)卒業後、1976年に母校の灘中学校・灘高等学校の英語科教諭に。2007年4月から2022年3月まで同校校長を務める。著書に『未来への授業』(新星出版社)、共著に『「開成×灘式」思春期男子を伸ばすコツ』(中公新書ラクレ)などがある。

 大学4年生のとき、教育実習で母校に赴くことになりました。授業実習では高2のクラスを担当したのですが、いきなり「オールイングリッシュで授業をするように」と言われて、大慌てで教案を作ったことを覚えています。教材はギリシャ神話を題材にした、プロメーテウスとエピメーテウスの兄弟神の物語でした。なぜそんなことまで覚えているかというと、緊張していたせいで神様の名前を「エピエピ…」と言いよどんでしまって、生徒に笑われたからです。翌年、教員として戻ってくると、もう「エピ」というあだ名がつけられていて、苦笑するしかありませんでした。

 話を教育実習に戻すと、実習の最後の日、恩師の英語の先生から「本当に教員になるつもりがあるのか」と尋ねられました。「もちろんです」と答えるとその直後、勝山正躬校長(当時)から呼び出しを受けました。何か怒られるのではないかとおっかなびっくりで校長室を訪ねると、「来年、英語科教員の枠が一人空くけど、来る?」とおっしゃるのです。わたしは思わず「はい!」と答えました。こうしてわたしの就職先はあっさり決まったのです。

 といっても内示の書類をもらったわけでもなく、頼りはその口約束のみ。その後、大阪府の教員採用試験も受けて、合格通知をもらったのですが、「本当にこれを辞退しても大丈夫だろうか」と心配になってきたので、あらためて学校に出向いて確認することにしました。勝山先生にそう告げると、「公立がよければそっちに行ってもいいよ」と涼しい顔です。「いえ、こちらで採用してくださるならすぐ辞退します」と、ほっとしたことを覚えています。自分の採用がどういう経緯で決まったのか、いまだに本当のところはわかりません。

着任初年度に中1を担当し
手探りで授業に向き合っていく

灘校に着任当初の授業の様子。生徒たちが能動的に授業に参加するスタイルは今も昔も変わっていません

 そのようにして、1976(昭和51)年の春、灘校での教員生活が始まりました。今は教員の人数が増えていますが、当時の英語科は、わたしを合わせてぴったり6人です。灘校は、各教科を担当する教員が担任団を組み、ある学年が入学してから卒業するまでの6年間をずっと持ち上がりで指導していく方式を採用しているので、わたしも初年度から中1を担当することになりました。

 教科書は決まっていましたが、指導方法については学校からの研修や指示は一切ありません。副教材選びも含めて、指導内容はすべて自分で決めていくのです。「自学自習」や「自律」が求められるのは、生徒も教員も同じというわけです。

 そうはいっても、わたしの場合は自分の母校ですから、自分が受けた教育という大きなお手本があります。教育実習でもお世話になった恩師が身近にいたので、先生が作った構文集などの教材も使わせてもらうなどしました。

 あれからもう50年近くもたちますが、灘校の校風は基本的に変わっていません。逆に変化したところを探してみると、少子化の世相を反映してか、保護者と学校とのかかわりがずいぶん深くなったと感じます。わたしは野球部の顧問でしたが、当初は「甲子園」につながる夏の大会でも、応援に来てくれる保護者をちらほら見かける程度でした。しかし、ある時代から、練習試合にも多くの保護者が熱心に応援に来てくださるようになりました。生活面や学習面について学校に相談に来られる保護者も増えましたし、6年間を通して、いろいろな場面で保護者とのかかわりが濃くなっています。

 生徒のほうも、かつてなら過保護を嫌って反発する子が多かったように思いますが、今は抵抗なく前向きに受け入れているような気がします。学校としても、行事にせよ部活動にせよ、積極的に応援してくださることは非常にありがたい。その一方で、こうした時代だからこそ、「自主自律」の精神を養う教育に、信念を持って取り組むことの重要性が高まっているようにも感じています。

生徒と共に学び、
生徒に育てられた最初の6年間

 先ほど、灘校では教員にも自律が求められると述べました。これはなかなか厳しい環境です。教員という仕事は、生徒になめられるのが何といってもつらい。ところが、灘校には一筋縄ではいかない生徒がたくさんそろっているのです。

 わたしも、生徒として体験した灘校と、教員として体験した灘校とでは、印象が違いました。生徒の立場なら、赤点さえ取らなければ、授業内容を7割しか理解していなくてもなんとかなりますが、教員はそういうわけにはいきません。生徒からの期待に100%応える必要があるからです。

 英語の場合、中1の内容はかなり易しいので、初年度はそれほど悩みませんでしたが、学年が進むにつれて、授業中にこちらが戸惑ったり、つまずいたりすることが増えました。そして、学校に行くのもしんどいと思ったことも正直ありました。

 しかし、その原因は自分の準備不足、勉強不足です。ですから、がむしゃらに授業の準備をするようになりました。今振り返っても、最初に担当した学年が中3〜高1ぐらいの時期は苦労しました。受験勉強が本格化すると、これはこれでノウハウが決まってくるのですが、生徒の成長をしっかり支える時期は、こちらの授業の質が最も問われます。そういう意味では最初の生徒たちは、わたしの実験台になってくれたわけです。彼らにはとても感謝していますし、年齢も近いので今も親しくつき合ってもらっています。彼らと会うたびに、そんな思い出話に花が咲きます。

 やがて教頭になり、校長になり…と、立場は変わりましたが、やはり先生方のやり方には一切口を出しません。しかし、教員も灘校では、「もっとがんばらなければ」「もっと勉強しなければ」という気持ちになって生徒と共に伸びていく。「本当に生徒に育てられたなあ」と実感しています。

 しかしそれも、校風が自分に合っていたからこそいえることです。生徒にしろ、教員にしろ、もっと面倒見が良い学校のほうが力を伸ばせる場合もあるでしょう。そういう意味でも、自分に合った学校選びは本当に大事だと思います。

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