和田先生が語る灘校の真価
Vol.3
自分なりの「好き」を探して
迷いながら進路を発見していく
どこの大学に進むか、何を専攻するか、そしてどんな仕事に就くか──。いつの時代も進路選択に、悩みや迷いはつきものです。灘高等学校時代に、さまざまな興味のなかから「英語」という分野を見定めて京都大学文学部に進学した和田先生も、目の前にさまざまな選択肢が現れてくるなかで、迷いながら方向性を決めていきました。大学生活をどのように過ごし、進む道をどのように決めたのかについて振り返っていただきました。
文責=和田 孫博
自分から好きになった科目は
成績がぐんぐん伸びていく
和田 孫博
わだ まごひろ
●灘中学校・灘高等学校前校長。兵庫県私立中学高等学校連合会副理事長。1952年生まれ。京都大学文学部文学科(英語英文学専攻)卒業後、1976年に母校の灘中学校・灘高等学校の英語科教諭に。2007年4月から2022年3月まで同校校長を務める。著書に『未来への授業』(新星出版社)、共著に『「開成×灘式」思春期男子を伸ばすコツ』(中公新書ラクレ)などがある。
わたしは長じて英語科の教員への道を進みましたが、中学時代を振り返ると、英語は苦手で、成績も今ひとつでした。それが変化したのは高校生になってからのことです。
きっかけは「リトールド版」と呼ばれる英語の本に出合ったことです。これは有名な文学作品などを、子ども向けの平易な英語で語り直した本のことで、もちろんすべて英語ですが、辞書を引きながら読めば、内容も理解でき、十分に楽しめました。日本の小説とはひと味違う外国の文化が表現されていることに興味をひかれ、オー・ヘンリーやサマセット・モームの短編集、シャーロック・ホームズシリーズなどを次々に読んでいくうちに、英語を読むことそのものが好きになっていきました。
すると、中学時代は苦痛だった英語の授業も楽しく感じるようになり、読解や英作文も自然に上達していきました。「好きこそものの上手なれ」とはよく言ったもので、自分から興味を持って打ち込んでいくと、成績は徐々に上がっていくのです。
大好きな英文学を志して
京都大学文学部に進学
さて、高校3年生になれば、大学受験についても考えなくてはいけません。気象大学校に進みたかったけれど、受験科目が合わずにあきらめたことについては前回も触れました。そこでわたしは、当時もっとも興味があった英文学を志そうと考えました。
灘校は、わたしより三つ上の学年で、初めて東大合格者数日本一になっており、わたしの学年でも東大志望者は、全体の3分の2ぐらいを占めていました。しかし、わたしは地元を離れるつもりはなかったので、自宅から通える京都大学を志望することにしたのです。
こうした進路選択について、先生から何か言われた記憶はまったくありません。自主・自由・自律を重んじる校風は当時も同じで、勉強も進路選択も本人任せ。悪くいえば「ほったらかし」でした(笑)。そのおかげかどうか、1浪することになりましたが、浪人生活も悪くはなかったと感じています。
というのも、灘校に在学中は、うっすらと「自分は劣等生ではないか」という気持ちがあったのですが、予備校に行ってみると成績は悪くありません。不得意だった数学も「こちらの解法のほうがいいのではないですか」と、先生に物申すこともあったぐらいで、かえって自信がついた記憶があります。
知的好奇心あふれる友人から
多くの刺激を受けた大学時代
晴れて京都大学文学部に入学したのは1972(昭和47)年の春のこと。当時はまだ学生紛争の空気が色濃く、大学構内でヘルメットをかぶった学生を見かけることもしばしばで、ストライキで休講になることもありました。
大学では、多様な友人たちとの出会いが大きな財産になりました。友人たちの出身地も九州、四国、東北などさまざまで、一人暮らしの下宿にもよく泊めてもらいました。男子校育ちのわたしには、女子が身近にいる環境も新鮮でした。といっても、当時は文学部といえども女子の比率は低く、3分の1ぐらいだったでしょうか。
友人たちとは、暇さえあればさまざまなテーマで議論を交わしました。わたしも文学部生のはしくれですから、読書量はそれなりに多いと自負していましたが、友人たちの読書家ぶりはわたしの比ではありません。わたしが読んだことのある程度の本なら、みんな読んでいて当たり前。その感想を言い合ったり、彼らが紹介してくれた本を手当たり次第に読んだり…。本当に大きな刺激を受けました。
京大では、入学時に専攻が決まっておらず、専攻が分かれるのは3年生からです。大学の専攻選びでもかなり迷いました。もともと英文学を志してはいましたが、大学に入学して、あらためてさまざまな分野に興味が広がったからです。そこで、教養課程ではできるだけ多くの分野の科目を選択し、2年生になると専門科目にもあれこれと手を出しました。特に一時期、のめり込んでいたのが日本史です。
後に京大名誉教授になられる歴史学者の上田正昭先生の講義は特に印象に残っています。しかし、専門科目となると、一般教養とは段違いに難しい。中世の武将の書簡のような古文書がいきなり教材としてさらっと示されるのですが、何が書いてあるかまったくわかりません。「この程度の文書がすらすら読めないなら国史の研究は無理だ」と言われると、「確かに」と納得して、またそちらの世界は挫折してしまいました。とはいえ、今も歴史は大好きです。
というわけで、結局3年生からは英文学専攻に落ち着いたのですが、先生方を見ていても、専門分野の研究を深めていく友人たちを見ていても、自分が学問の世界で研究者をやっていくイメージはどうしても持てませんでした。文献と黙々と向き合って探究を深めていくのは本当に厳しそうですし、「これはとても自分には務まらない」と思うようになったのです。
当時の就職事情はそれほどよくありませんでした。英語の教職免許だけはしっかり取っておこうと、教職課程を履修していたことが、卒業後の進路につながりました。
もう一つ、今から思うと教師への道を進むきっかけになったのが大学時代のアルバイトです。1年生のころ、灘校の同級生から塾講師のアルバイト先を紹介されました。そこは小さな個人塾で、自分としては英語を教えるつもりで面接に行ったのですが、塾長が英語の先生で「英語は足りているから、小学生の算数・国語・理科をお願いしたい」と言われて、「ほかに適任者が見つかるまででよければ」と、半年ぐらいの予定で始めたのですが、結局4年間お世話になりました。教えることは嫌いではなかったですし、子どもたちも慕ってくれました。
そして4年生になって、母校で2週間の教育実習を行いましたが、これが卒業後の進路を決定づけることになりました。
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