受験ライフをサポートする 進学情報誌 さぴあ

さぴあは、進学教室サピックス小学部が発行し、内部生に配布している月刊誌です。

和田先生が語る灘校の真価

Vol.1

時代が変化しても変わらない
灘校の自主性を重んじる自由な校風

 教育理念や校風が長い年月をかけて学校の隅々に浸透し、日々の教育にしっかり息づいていることは、伝統校の大きな魅力です。戦前から優秀な人材を輩出し続けている灘中学校・灘高等学校で15年間校長を務め、この春退任した和田孫博先生は、その「真価」をどう感じているのでしょうか。OBでもある先生に、中高時代の思い出を振り返っていただきながら、時代とともに変化したこと、時代を経ても変わらないことを伺いました。

文責=和田 孫博

柔道が初めて正式競技になった
東京オリンピックの翌年に入学

和田 孫博

わだ まごひろ
灘中学校・灘高等学校前校長。兵庫県私立中学高等学校連合会副理事長。1952年生まれ。京都大学文学部文学科(英語英文学専攻)卒業後、1976年に母校の灘中学校・高等学校の英語科教諭に。2007年4月から2022年3月まで同校校長を務める。著書に『未来への授業』(新星出版社)、共著に『「開成×灘式」思春期男子を伸ばすコツ』(中公新書ラクレ)などがある。

 わたしが灘中学校に入学したのは1965(昭和40)年です。前年に、東京オリンピックが開催されました。入学前ですから、わたしは、「柔道の父」「日本の体育の父」と呼ばれ、灘校の設立にも参画した嘉納治五郎先生のことはまだ知りませんでしたが、柔道が初めて正式競技になったこのオリンピックを、テレビで夢中になって観戦したことは覚えています。

 日本選手は柔道の各階級で次々に金メダルを獲得しましたが、最後の無差別級で、神永昭夫選手がオランダのアントン・ヘーシンク選手に敗れてしまいました。バレーボールでは「東洋の魔女」と呼ばれた日本の女子チームが活躍して、宿願の金メダルを獲得したことにも感動しました。

 最新の夏季オリンピックは7月・8月の開催ですが、1964年の東京大会は10月開催。あらためて思い返せば、中学入試が目前に迫った小学6年生の秋に、テレビにかじりついていたわけです(笑)。

 もちろん、受験勉強もしていました。ただ、今とはかなり雰囲気が違っていたと思います。当時の灘中は今のように遠方から通う生徒は少数派で、兵庫県内、特に神戸・芦屋・西宮辺りの生徒がほとんどでした。わたしの家は大阪市内にあり、塾にも通っていなかったので、周りの友だちと切磋琢磨しながら受験勉強に取り組む、という雰囲気はありませんでした。

 ただ、5年生からは通信講座を受けていました。灘中対策に特化した内容ではなかったのですが、中学受験を想定した問題が次々に自宅に送られてきます。その講座では月に1回、模擬試験があり、成績上位者の名前が掲載されるので、それが子どもたちの競争心をくすぐりました。

 わたしは自分から灘中を志望したわけではありません。両親がどこで聞いたのか、「いい学校があるみたいだから、受験してみたら」と勧めてくれたのです。ほかにどんな学校があるかも知りませんし、中学受験がどういうものかもわかりません。そんな、わからないまま取り組んだ受験だったのです。

 といっても、勉強は嫌いではありませんでした。両親もそれを見て受験を勧めてくれたのでしょう。特に算数は小学校の友だちに負けない程度には得意でした。先生に難しい質問をして困らせた思い出もあります。

 「いい点数を取りたい」というより、「わからない問題があるのが悔しい」「問題の意味をきちんと理解したい」という思いが強かったですね。問題を解いて、わからなければ解説を見て、自分なりに理解する。基本的には自学自習でしたが、親が与えてくれるものには次々に取り組んで、楽しみながら勉強した記憶があります。

学年を超えた交流を通じて
中高一貫校で学ぶ楽しさを実感

上/正門を入って直ぐの本館2階の講堂正面にある「精力善用」「自他共栄」の額は、嘉納治五郎の直筆です 下/灘中高では1969年まで丸刈りで制帽をかぶっていました。左が中学校、右が高校の制帽

 そうやって入学した灘中ですが、当時は、制服も制帽もあり、頭髪も丸刈りと決まっていました。

 制帽のつばは、なめし革だったので、最初は明るい黄土色です。学年が上がるにつれて、この革がだんだんあめ色に変わっていくのがかっこいい。そう思って一生懸命手あかを付けたりもしました。入学当初は誇らしげにそれをかぶって通学していましたが、だんだん恥ずかしくなってきて、かばんに入れっ放しにして、学校に着く直前にさっとかぶったりしていました。

 最寄り駅は国鉄(現在のJR)の住吉駅ですが、わたしは阪神電車で通学していて、阪神魚崎駅から歩いていました。同じ電車を使う生徒の顔ぶれはだいたい同じなので、駅から10分足らずの道を、みんなでわいわいおしゃべりしながら学校に向かう、先輩と後輩が交じり合ったそのグループを「阪神組」と呼んでいました。こうしたなにげないことで、中学生になったと実感しました。

一人ひとりが自立しながら助け合う
今も昔も変わらない灘校の気風

 当時と今とを比べると、変化したこともありますが、生徒の自主性を尊重し、互いに助け合う校風は、基本的には変わっていないと思います。当時から講堂の正面には、校是である、嘉納治五郎先生直筆の「精力善用」「自他共栄」の額が掛けられていて、入学式では校長先生から「まず自分の持っている力をしっかり発揮しなさい。そして自分だけでなく、みんなと仲良く幸せになっていきましょう」と、意味を説明してもらいました。

 わたしはもともと人を押しのけるタイプでもなく、いろいろな友だちと仲良くしていたので、それが大事だということはわかったものの、特に強い感銘を受けるような特別なことばとは感じませんでした。でも、校是のとおりの雰囲気は、当時から学校全体に漂っていました。

 友だちが困っていると周囲は助け舟を出すし、逆に自分が困っていることを相談すると、手助けしてもらえます。文化祭などの行事にも先生はほとんど関与しないので、「自分たちでやらなきゃいけない」という空気になります。展示物一つ作るにも「ここは自分がやるから、あっちは君がやれ」という具合に、自然にリーダーシップを取る人が現れ、分担が決まっていくのです。「それぞれがそれぞれの特質を生かして役割を果たしていく」。それは当時から続く灘校の伝統だと思います。

ページトップ このページTopへ